Vol.3 | カフェオーナー

「スペシャルティコーヒーの文化に広がる、無限大の可能性」坂尾 篤史 (前編)

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“行き詰まった時こそ、外に出る”

僕がカフェ文化と出会ったのは、バックパックでオーストラリアを訪れた時です。オーストラリアはカフェ文化が成熟した国ではありますが、それを理由で選んだのではなく、ほとんど海外経験がなかったため“渡航しやすい海外” の一つだったということが理由でした。しかし、この選択が僕の運命を変える旅になりましたね。

千葉県の銚子で育った僕は、高校生の時に地元の大衆食堂でアルバイトをしていました。お年寄りの地元民が足を運ぶような“地域密着型” のお店です。他にも蕎麦屋さんでアルバイトをしていました。とにかくこだわりが強くて、手打ち蕎麦の出来に納得がいかない日は店をたたむほど徹底したこだわりを貫いている店主でしたね。そう思うと、当時から自然とアルバイトでも働く基準に“こだわり” の部分があったのかもしれません。

高校を卒業した後は、実家が工務店を営んでいたこともあり建築の専門学校を志望し東京へ行くことにしました。そこで学んだ建築デザインの楽しさに魅了され、設計事務所に就職することを考えたのですが、就職難ということもあってなかなか就職先が見つかりませんでした。そんな中、建設会社の“ゼネコン” に就職を決め、そこでも面接の際に「デザインをやりたいんだ」 と諦めず伝えましたが、結局設計部には入れてもらえなかったです。それに会社の人にも「なんでも初めは現場からだよ」って言われて、誰でも現場からなんだって思い込んでいました。(笑)

主に住宅やデパートの改修工事などを請け負っていたので、就職してからは設計現場の職人さんを管理する監督業務を任されました。ただ、監督業務とは名ばかりなもので“若いやつはとにかく現場で揉まれて来い” って感じの風習で、とにかく扱き使われたのを覚えています。県外への出張も多く、函館に半年間の住み込みへ行った時は40歳くらいの上司と2DK のアパートで共同生活を強いられて、毎朝朝食を作らされ、週末はスナックに連れていかれる日々でした。(笑)

約2年勤めたのですが、そういったこともあり働きかたへの違和感が拭えなくて退職することを決めました。昔から、父が大工をしていたこともあり“会社員” という概念がなかったんですよね。だからこそ、将来独立をして何かをやることが普通なのだと思っていました。

退職後、地元に戻り大工の仕事をしていたのですが、組み立てるように作る家にどこか物足りなさを感じ始めました。その時にたまたま手に取ったのが、沢木耕太郎の『深夜特急』 という本で、そこから旅への憧れが募ったのを覚えています。人生に行き詰まった時こそ、“外に出て人と会うこと” を意識していた僕は、24歳の時にバックパックに出ることを決意し、外へ出ることにしました。

“運命を変える旅 。

一杯のコーヒーが作りだす、日常の起点”

バックパックで訪れた“メルボルン” では、本当に数え切れないほどのカフェが街中にあって驚きました。オーストラリアでは、全体的にカフェ文化が成熟している国なのですが、メルボルンはその中でも特にカフェ文化が市民に根付いている地域でしたね。

ホームステイ先の“シドニー” でも、パリよりカフェの数が多いと言われるほど日常になくてはならない身近な存在でした。滞在中はルームメイトのドイツ人の友達が毎日カフェに連れて行ってくれたんです。そこでお店の人や常連さんと挨拶を交わすようになり、特に話し込むわけではないんですけど、たわいもないコミュニケーションを交わすことがとにかく新鮮で、“一杯のコーヒー” を通して日常的にそういった習慣がある生活って素晴らしいと思いました。

現地で飲むコーヒーは本当に美味しかったですし、そういった印象がとても強く“カフェを開くこと” を決意しましたね。そのあと念願だったアジア15カ所を巡って日本に帰国し、帰国後すぐに“世界チャンピオン” がディレクションする『ポールバセット』 というカフェが新宿にあるのですが、そこで2年ほどバリスタの修行をしました。

“震災で学んだ、自分らしく生きていくこと”

独立を決心したのは、2011年3月11日の大震災がキッカケです。僕は被災地でボランティア活動を逸早く開始した東京のグループに連絡をとり、5月に宮崎県石巻市の瓦礫撤去のボランティア活動に加わりました。ボランティア団体のリーダーは、自分より若いのにも関わらず震災から3日後には活動を始め、瓦礫撤去のために高速道路通行などの許可を取り付けるなど、迅速に行動していました。他にも同世代の人や若い世代の人もたくさんいて、僕が5月に石巻に到着した時にはニュース映像を見て覚悟していたよりもはるかに撤去作業が進んでいて驚かされましたね。それに比べて、僕は会社に属していたのですぐに現地へと駆け付けることができませんでした。

バックパックしている時は、毎日自分で生活を選んでいかなくちゃいけないじゃないですか。「今日どこに行って、どこに泊まろう」 とか。毎日の日々を100% 自分で考えて行動をしていました。でも、東京で働いている時は日々の仕事に追われ流されるままになって、“自分でちゃんと考えて行動する” って感覚がなかったんです。

石巻に行った時、地元のおじいちゃんとかに「自分たちは住む家や物はなくなっちゃったけど、君たちには自分らしく暮らして欲しい。自分らしく生きていくために何をするべきなのか。しっかり考えた方がいいよ」 ってすごく言われて。お金も物も全て無くなって、大切な家族や友人も亡くした方もたくさんいる中で、その人たちに掛けられた言葉はとにかくスッと入ってきて「確かにそうだな」 って。本当に素直に思いました。

その経験が僕を動かすキッカケとなり、その後すぐに会社を辞めて翌年の1月にロースタリー&カフェ『オニバスコーヒー』 を奥沢にオープンさせました。

※『オニバス』 とは、ポルトガル語で“公共バス” を意味する。さまざまな人を乗せて、バス停からバス停までを繋いでいく。毎日の生活に溶け込むような日常をイメージした。

 

–“自分らしく生きていくため” にカフェオーナーとして独立の道を選んだ坂尾氏。しかし、オーストラリアほど成熟したカフェ文化が根付いていない東京で苦悩や挫折を味わうことに。その中で信じ続けたもの、働くの在り方から将来の展望まで、後半は伺っていきます。

 

坂尾 篤史
カフェオーナー
“スペシャルティコーヒー” の文化をコミュニケーションに東京のカフェ文化を牽引する坂尾氏。自ら経営する「ONIBUS COFFEE (オニバスコーヒー) 」 では、焙煎・海外の農園視察・豆の買い付けを徹底して行う。“丁寧な一杯で、暮らしに豊かさを” をコンセプトに掲げ、サスティナブルなマインドを元源にカフェ文化を日本に広める彼の活動を通して、働きかたや生き方に対する想いを伺った。