Vol.4 | ブランディングプロデューサー

「社会への熱いメッセージが、次世代の“PEACE” をつくる」井本 喜久 (前編)

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“父が繋げてくれた、東京での出会い”

実家は瀬戸内海に面する広島県竹原市にある小さな米農家。父親は、地元の市役所に務めながら週末は米づくりをするいわゆる兼業農家でした。父親は俺と全く違うとても几帳面な性格で、「親父はなぜ儲かりもしない米作りをそんなに丁寧にやり続けるのか?」と疑問をもっていましたが、高校時代に通っていた塾講師からの勧めもあって「将来は日本の農業を元気にする道」に徐々に興味を抱くようになり、大学は東京農大に進みました。

大学に入って東京の暮らしにも慣れたころどんどん仲間が増え始め「日本の農業を元気にするミッション」 は完全に忘れ去り夜の街で遊びはじめるようになりました。(笑) その頃、たまたま出会った広告イベント業界の人々と仲良くなり、そのまま渋谷のイベント会社でアルバイトをするようになりました。その会社ではアルバイトだろうと実力があれば高い評価をしてくれて、同世代の仲間たちのバイト代とは比べ物にならないほど良い給料を手にし、それまでの貧乏な学生生活は一変。企業と企業のダイナミックなビジネスの現場を目のあたりにし、そのスケール感と時代を創っていく感覚(田舎では得られない刺激的な雰囲気)に魅了され、卒業後は農業ではなく広告業界に飛び込むことになりました。

“未来を見据えた、働きかたを考える”

社会人になって最初の仕事は、サーフィンの世界選手権の日本大会を企画・運営する現場でのディレクターでした。右も左もわからなかったけどガムシャラに現場をこなし、気がつくとその仕事に携わった様々な人たちと、沢山面白い仕事をするようになっていましたね。大きな案件をカタチにしていき、企業戦士として儲けを上げてこそ優秀なんだ!と考えていたように思います。稼いで稼いで、それが終わると同じような案件がきてまた稼ぐ。「稼ぐ=カッコいい」と本気で思っていましたね。しかしどこか自分の中にスッキリしないものがあって。

当時、社内には「1アイデア5ジョブ」という言葉があって、1つのクライアントに新しい広告のアイデアを出して上手くいったら、他のクライアントにも同じアイデアを用いて、合計5つのクライアントにセールスしなさい、という会社の方針だった。あるとき、別でやったアイデアを真似てクライアントに提案したら、そのことに気付いたクライアントから出入り禁止にされたことがあったな。その時に、「このままずっとトカゲの尻尾切りのような仕事をこなして何に繋がるのか」 そもそも自分は何のために働いているのかと自問自答するようになりました。

“どんな環境でも、楽しむ心を忘れない”

答えはスグには見つからなかったけど、入社から5年目26歳の時、付き合ってた彼女が30歳になったから、そろそろ結婚しようと考え始めました。そして結婚を期に全ての流れを変えてみようと思ったんです。長男だし、故郷に錦を…という想いもあって、結婚式を東京と広島でやって、広島県内の田舎まちに引っ越しました。広島ではアパレルのセレクトショップをオープンさせて、広告の事業もやったりしながら今までやろうと考えていたことを全部やってみました。でも結果は散々たるものでしたね。(笑)

セレクトショップは1年半で閉店。借金だけが残り、広告事業で何とか再起を図ろうと渋谷のイベント会社の傘下になり、広島市内中心部に事務所を移転しました。そこから少しは事業が上向いて、このまま行けるか、と思っていた矢先に、なんと会社で一番稼ぎ頭である僕が地域活性化のボランティア活動に没頭するようになってしまいました。(笑)

平和都市広島で「世界平和の祈り」と共に地元高校生たちと平和公園で野外ライブイベントを企画し実現したりして、その制作作業をボランティア団体参加者の仲間たち(25〜40歳の青年が集まる150人規模の団体)と必死に徹夜しながら、時には喧嘩なんかもしながらやりました。その結果、会社経営はまたまた悪化。(笑)広島市内で再起を賭けた広告事業も撤退を余儀なくされました。

それから数名の社員と家族を連れて東京に戻り、親会社である渋谷のイベント会社の中で一兵卒からやり直しました。広島での事業が “失敗“したというレッテルから、肩身の狭い思いをしながらも、同時に“挑戦したことへの達成感” もあったりして、「いっちょ東京でもブチかましたる!」 みたいな想いがこみ上げてきて。

ナショナルクライアントの案件を受注した時に、世の中に役立つ熱いメッセージをその広告の中に埋め込んでいくと、予算も世の中も注目も大きなものになることを実感して。広島でやったボランティア活動の「社会に貢献することの心地よさ」を今後の東京でのビジネスにも活かしていけたら、世の中もクライアントも喜ぶんだっていう視点が生まれたんです。これは自分にとって大発見でしたね。

“感情に従順に、

心のバランスを保つために気付いたもの”

2009年には、或る地方自治体の案件で映画監督の岩井俊二さんと一緒にアニメーション映画の製作をプロデュース。同じ年にまた別の案件で日本イベント大賞を受賞したりして、その頃から仕事はどんどん上向き始めて、広島で事業を失敗させた時の借金も完済しました。その直後、お世話になった親会社から再独立をしました。

そこからは、クライアントや社会の為に役立つことはもちろんのこと、自分自身の心がときめくような面白いことを起点にして仕事をしていこうと思ったんです。

社会人になってから十数年経ってようやく行き着いた感性、それは近江商人の商売哲学である『三方よし』 でした。「売り手よし」 これは自分自身が気持ちいいという意味です。そして「買い手よし」 はお客様が気持ちいいという意味で、「世間よし」 は社会に貢献しようという意味です。この『三方よし』 のバランスが分かってからは、ますます仕事がうまくいくようになりました。

“コミュニティーが作りだす、未来に紡ぐメッセージ”

独立して暫くは一人でノートブック一台だけ持ってビジネスする、当時流行りの“ノマドワーカー”でした。そして、クライアントビジネスを軸とした事業だけやっていると、どうしても自分発信のブランドを作りたくなってきました。そのタイミングでたまたま仲間から「屋台を表参道に出さないか?」 という話が入ってきて、飲食事業のスタートを決意しました。

それまで一人でやっていくことの限界を感じていたので、次は仲間たちと事業を始めてみようと思い、2012年、NYに暮らす友人、東京でファッションスタイリストをやっている友人の3人で『ブルックリン・リボン・フライ』 を創業しました。これはフライドポテトとジンジャエールの専門店なんですが、いわゆる飲食店をやりたかったわけではなく、ブランドを作りたいという思いで始めたんです。4年で3店舗まで拡大して、更にジンジャーシロップを商品化して、全国110店舗の取引先に卸していくようもなりました。

そういう飲食事業にハマっていったことがキッカケで、今度は社会人のカルチャースクールである自由大学の中で「お店をはじめるラボ」 という講義をスタートさせました。この講義は自由大学の中でもぼちぼち人気の講義になって、5年間で約220人が卒業して、オープンした店舗数は26店舗になりました。

“仲間とシェアすることで、

働く楽しさをアップデートする”

一人は楽だけど、やっぱり仲間たちと働くって楽しいですよね。信頼できる人に出会って、一緒に仕事をする。その面白さを本当に理解できたのは独立してからです。自分だけではモチベーションが上がらないようなことでも、誰かとやるから楽しくなるし。日々誰かが成長していくのを見ていると、自分自身も成長していく感覚になるんだよね。

それはきっと人類の進化にもつながっていると思う。昔から大きなプロジェクトなんかを進めていくとき、多くのスタッフたちとチームを作って動いてきました。その時のチームメンバーとの達成感もあったのですが、向かっていく方向が「単なる賑やかしの話題づくり」だと終わった後に虚無感が残るんですよね。

『三方よし』 で心のバランスが取れるようになってからは、“次世代のPEACE” に繋がるメッセージ性を大切にするから、その圧倒的な正義に向かって、仲間たちと協働する。そうすることで達成感がなん百倍にもなることを沢山経験しました。

つまり、ようやく仲間と一緒に働くことが段違いに楽しいということに気付けた訳です。

 

ビジネスでも人間関係に於いても構えがなくいつも楽しく働けるのは、仲間が居て、『三方よし』の考えがあるからことだと語る井本氏。後編は、バーチャル農学校を設立した経緯や今後の展望などを伺っていく。

 

井本 喜久
ブランディングプロデューサー
老若男女に関係なく全ての仲間から“イモッチャン”という愛称で親しまれている元気の塊キャラである井本氏。「コズ(株)」の代表取締役として企業プロモーションを多数手掛けながら、2012年に「ブルックリン・リボン・フライ」を設立。表参道などに店舗を展開。2016年、新宿駅屋上にて都市型マルシェ「The CAMPus」を期間限定で開催し、2017年末にはバーチャル農学校をスタート。そんな彼の独創的で面白い働きかたについて考えを伺った。