Vol.9 | レストランプロデューサー

「時給650円のアルバイトから、世界中のレストランをプロデュースする起業家に」篠木 清高 (前編)

share on

“バカ野郎!高校だけは出ろ”

中学卒業間近に、「進学しないで料理の世界に入りたい」と、父に話したら、ひどく怒られました(笑)。父は中卒で、田舎の町工場で働いてきた人間なので、それなりに苦労してきたんだと思います。だからこそ、父の熱のこもった、あのことばに対して素直になれました。そんな厳しい父の、「おいしい」の褒めことばも、本気で料理の道を目指すきっかけになりましたね。そのことばが、こども心に強烈に嬉しかったのを覚えてます。

幼稚園の作文にも、『夢はコックさん!』って書いてあったくらい、小さい頃から料理人になるのが夢でした。もともと、工作や絵を描いたり、自分でなにかを作るのが得意だったんです。両親が共働きで、子供が料理をつくるのが、あたりまえの家庭環境でした。両親の帰りを待ちながら料理を作ることに、幼いころから熱中していましたね。

–人間は、”興味のあること”なら楽しく勉強できるんだ!と、実感した高校時代

どうせ高校に進学するなら料理に関連する学校がいいな、と思い、県内にあった農業高校の食品科学科に進学しました。そこでは、毎日味噌を作ったり、醤油の塩分濃度を測ったり……。食についての知識がめちゃくちゃ増えましたね。

進学して迷わず、料理のアルバイトがしたいと思ったので、家の近所で一番美味しいお店はどこかな?と考えました。そこで店主が一人でやってる、20席くらいの小さな中華料理店が思い浮かびました。「とにかく、まずは門を叩くぞ!」と意気揚々に、「働かせてください!」って、飛び込みで頭を下げました。

–時給650円。”脳みそがコンピューターみたい”な、中華屋店主

「おまえ、今どき珍しいやつだな。時給650円でもいいなら働け」店主が、そう言ってくれて、お金なんて気にせずにがむしゃらに働きました。そこの店主は、僕が入るまで、料理、掃除、注文取るのも、会計も、全て一人でやってた人だったから、お客さんからのオーダーは、全て脳で記憶するんです(笑)。その記憶力と、暗算力がすご過ぎて、「人間コンピューターみたいな人だ!」と思いました。

結果的に、高校3年間、ずっとそこでバイトしてました。店主は、とても厳しかったけれど、可愛がってもくれて、最終的には、時給1200円くれました(笑)。「将来は、自分の店を持ちたい」と、店主に相談したら、「店を出すなら、ロスが少ない中華がいいぞ」とのアドバイスを受け、そのことばを鵜呑みに就職活動を開始。飲食事業大手、『中華料理・東天紅(とうてんこう)』を受け、入社。約3年半ほど働きました。

–6ヶ月間の孤独と、感謝

東天紅に入社してから、毎日が刺激的でした。高校3年間バイトしてた中華料理店とは、規模も、内容も、全く違っていて勉強になることばかりでした。寝る間を惜しんで働きました。まさに、修行の日々という感じ(笑)。憧れだった料理長にも、とても可愛がってもらっていました。

ところが入社から1年が経つ頃、ある日突然、無視されるようになったんです。なにか大きな失敗があった訳でもなく、怒らせるような事をした訳でもなく、なぜか、ある日を境に一言も喋りかけてもらえなくなって…。これはもう、ほんとにショックでした。他の先輩からも、連鎖的に無視されるようになって…。そこから6ヶ月間は、孤独で辛い毎日でしたね。毎日悔しくて、トイレの壁を殴っていました。今振り返ると、僕が仕事もある程度覚えてきて、少し、調子に乗っていたのかもしれません。

でも、止まない雨はないんですね。僕はひたすら“一流の料理人”を目指して、毎日を諦めずに、丁寧に、丁寧に、働きました。気がつくと、一人、二人、と話してくれるようになってきて、いつの間にか、料理長もコミュニケーションできるようになっていました。あの期間、本当に辛かったけど、今では、その料理長に感謝しています。あの経験がなかったら、今の僕はいないと思います。

–社員から、またアルバイトへ

東天紅での仕事も、一通り覚えた頃、「もっと幅広い、料理のプロフェッショナルが集まるお店で働きたい」と、強く思うようになりました。そんなある時、当時、”飲食ベンチャーの風雲児”、と呼ばれたカリスマ、岡田賢一郎さんが立ち上げた、『ちゃんと。』という飲食グループの、『橙家(だいだいや)』という、和食のお店の前を通りかかったんです。

高校生のときと同じように、「ここで働かせてください!」と、門を叩いたら、タイミングよく、「銀座に、400席規模のデカいお店ができる」ということで、アルバイトとして採用してもらいました。プロ集団の中で、切磋琢磨するイメージで入りましたが、現実はぜんぜん違っていました。年下の、料理も何もできない社員に、あごで使われたりして…。

やはり、アルバイトでは、”一流”を目指せないと思いましたね。東天紅時代の先輩が、お店に食べに来てくれたんですが、「このお店まずいぞ」と、正直に言ってくれて。その夜は、「自分の選んだ道が間違っていたかも」、「どうせバイトだからな」、と考えたりして、悔しくて眠れなくて…。「辞めよう」という決意をしました。

“1年で料理長に。スーパー・スピード出世の24歳”

翌日、お店に行き、総料理長に辞意を伝えようと思っていたのですが、何故か口から出た言葉は、「社員にさせてください!」という一言でした。もちろん、総料理長は人が足りてなかったこともあって、即答OKでしたね。今思うと、僕は、イバラの道の方が本能的に好きなんです(笑)。そこからの僕は、スイッチがガッチリ入った感じで、「よし、この店で革命を起こしてやろう!」って思ったんです。そこから僕の働きかたが、まるっきり変わりましたね。

誰よりも早く出勤して、仕込みも掃除も、完璧にやるのは当たり前だし、誰よりも遅くまで働きました。半年で副料理長になり、1年で料理長になりました。スーパー・スピード出世の24歳ですね(笑)。

しかし、肩書だけもらっても意味はないですよね。なかなか自分より年下の料理長の言うことなんて、みんな聞きたくない訳です。言うことを聞かない人は、どんどんクビにしました。けど、なかなか理想のチームは出来なかったですね。若造の料理長として、悪戦苦闘して、料理長になって、初の年末商戦期の売上を、前年比で、大きく下回りました。そして小規模の店舗に左遷されて…。本当に悔しかった。それが、人生最初の大きな挫折になりました。

人生最大の挫折を味わった時に、「篠木頑張れよ。これはチャンスだぞ!」と、言ってくれた先輩がいて、その言葉を励みに、移動先のお店では、一心不乱に働きました。特に、チーム全体としての成長を、強く意識しましたね。なんというか、いつもみんな、めんどくさいくらい、ポジティブな言葉を掛け合ったりしてね(笑)。そんなことの積み重ねが報われたのか、その年の年末商戦では、小規模店舗とは思えないほど、圧倒的な成績を上げることが出来ました。この時、周りからの目線が、明らかに、今までのそれとは逆転したのを、今も、覚えています(笑)。すぐに、6店舗の総料理長を任されました。

–ニューヨークへの出店

そこからは、各店舗の成績を伸ばすことが、面白くて仕方なかったですね。お店は、手をかければかけるほど、成長するんです。まさに、生き物だと感じました。アルバイトの時から含めて約4年間、とても多くのチャンスをもらいました。チャンスに応えて成績を上げ続けた結果、英語もしゃべれない、海外旅行経験さえも、ほぼ無かった僕に、「おい篠木!ニューヨークに出店するから、お前やってみないか?」と、社長に言われました。僕は、ただただ驚きながらも、大きな声で「はいっ!喜んで!」と答えて、初めてニューヨークへと渡たりました。

 

 

–好奇心、行動力、根気。そんな言葉が、篠木氏の若き頃の在り方を示しているように感じる。24歳で味わった人生初の挫折を乗り越え、海外転勤という思いもよらぬ転機を迎えた彼は、どのようにしてニューヨークでの成功を手にしたのか。後編では、海外から見た日本という国、これから若い世代が担っていく未来について語ってもらいます。

篠木 清高
レストランプロデューサー
埼玉県川口市生まれ。地元の農業高校の食品科学化を卒業後、中華料理東天紅に入社。後に橙家銀座店の総料理長に就任。「CHANTO NEW YORK」の出店に伴い、28歳で渡米。その後、NYでレストランのコンサルティング会社「A&K RESTAURANTS CONSULTANTS」を設立。高橋歩率いる「PLAY EARTH」がNYにオープンさせたレストラン「BOHEMIAN NEW YORK」の代表も務める。昨年、同じくNYに日本食居酒屋「TakuMen」をオープン。小さな頃から変わらぬ夢を実現させ少年のように真っ直ぐ世界を突き進む彼の半生を伺った。